タマコシ シネマティック ユニバース

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リバイバル上映『もののけ姫』

もののけ姫』再鑑賞2020

 

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マイ・オールタイム・ベスト10の一つが『もののけ姫

公開から23年目の今日、映画館で観てきたので再レビュー。

 


映画館に行った一番古い記憶の作品の一つが『もののけ姫』だった。公開当時、計算だと小学校に上がる前の歳。まだ指定席じゃなかったのか、館内に入ると人で溢れていて、立ち見でエンドロールから観始めだのを記憶している。

 


そんな『もののけ姫』だが、初鑑賞の思い出はその程度で、当時はほとんど内容をわかっていなかった。公開からどれくらい経ってからか、家族でトイザラスに行った時、兄と母がVHSを「やっと手に入る」と言わんばかりに喜びながら買っていた。その後はケースがボロボロになるまで何度も観た。

 


祟り神のビジュアルが気持ち悪いとか、洞窟でジコ坊が作った雑炊が美味そうとか、呪いを受けたアシタカの怪力とか、モロ(美輪明宏)の声のインパクトとか、デイダラボッチのドロドロ怖いなとか、小学生当時はそんな感じでそれなりに楽しんでいた。

 


でも今作が、本当に凄い作品だと感じたのは、エンタメの枠だけに収まらない傑作だと気づいたのは、成人後に観返した時だった。

 


争いと共生、生と死、憎しみと呪い、破壊と開発、残酷さと優しさ、etc…。いろいろなテーマを、概念を、世の複雑さを感じる。

 

 

 

公開から23年たった今、コロナ禍の影響もあってリバイバル上映されている。

 


リバイバル上映」とは、旧作や古い名作が再上映されることを言う。通常新作が1800円のところを、リバイバルでは特別料金1100円で観られる。TVで、DVDで、何度も観ている作品であっても、映画館の大画面で観る機会は、このリバイバル上映でなければなかなかできない。

 

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今回そんな訳で、映画館への貢献も兼ねて『もののけ姫』を映画館で観てきた。やっぱり凄い作品だった。新たな気づきもいくつか得られた。今まで何とも思わなかったシーンに泣いてしまった。

 


以下、今回の気づき

 


序盤、アシタカが村を去るシーン

彼は、村で唯一の若い男。そんな彼が村を守る為に祟り神を倒す行為は、結果的に彼が呪いを貰い死を待つのみとなり、村の後取りが居なくなり村の衰退を意味する。今まで何とも思わなかったのに、彼が村を出て行く事にそんな大きな意味があるのだと知って泣いた。

 


サンとタタラ場の女

サンとタタラ場の女達、実は構造的に一緒なんじゃないかと。山犬モロに喰われそうになった人間の親、自分が助かる為に差し出した赤子がサン。人間社会で捨てられたり虐げられてきた女達、そんな彼女達を拾って仕事を与えて食わせて共に生きてきたエボシ。

人間社会からはじかれて、自分のコミュニティの外を敵視しているという点で共通している。彼女らを救ったのが、山犬モロだったかタタラ場のエボシだったか、それだけの違いだ。

 


今と重なる場面

終盤、首を取られたデイダラボッチに浸食される森、燃えゆくタタラ場は、今観るとどうしても震災を彷彿とさせる。森の者も人間もどちらも、棲み家を失い仲間が大勢死んでいくあの絶望は、現実の現代社会と重なってしまう。それでも「終わりじゃない、生きていれば何とかなる」というセリフが、今だからこそ心に響く。人間を許せずとも1人の人間アシタカに心を開いたサン。ゼロから希望を持ってやり直すタタラ場の人達。そんな彼らの姿を最後に終わる今作は、今の時代だからこそ観るべき作品なのかもしれない。

 

 

 

本レビュー作成中に気づいた偶然だが、リバイバルを観に行った今日2020年7月12日は、『もののけ姫』初公開からちょうど23年。また今作への思い入れが強くなった。

 

 

 

次観るのは何年後になるのか?その時、私は何を思うのか?いずれ生まれるかも知れない我が子は、どう感じるのか?

 


そんな事を考えながら、明日からも私は生きていく。