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映画『ジョーカー』 誰もが悪になりうる  

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『ジョーカー』R-15指定 

公開 2019.10.4(金)

鑑賞 2019.10.6(日)

ジャンル ドラマ/スリラー

 

 

 

2013年『ダークナイト ライジング』のラストにおいて、主人公ブルース・ウェイン/バットマンの以下のセリフがある。

『誰もがヒーローになる事ができる。(両親を亡くした)少年の肩にコートをかけて「世界の終わりじゃない」と声を掛けてあげればいいんだ」

ノーラン監督のバットマン三部作のラストが「誰でもヒーローになれる」というテーマだったのに対して、バットマンの宿敵ジョーカーを描いた今作のテーマは「誰もがヴィラン(悪)になりえる。誰もがヴィラン(悪)を生み出している」だったように感じた。

 

 

 

正直、「面白かった」とか「良い作品だった」とか、そういう感想で表現していいものか迷っちゃうんだけど、良くか悪くか確実に価値観に影響を受けた。怖かった、劇薬だ。

1週間前に観てきたけれど、ずっと”後半のあるシーン”が頭から離れない。衝撃の作品だった。

だから、人によってはおススメできない。というか観てほしくない。心が不健康な人、子供は観ないでください。

 

 

 

まず、このタイミングでコレ公開しちゃって大丈夫なのか?ってマジで心配になった。政府や富裕層への不満が蔓延する現代、影響を受けてやらかす人が出てきそう。というか、現実で実際に起こってきた凶悪な単独テロ事件の容疑者って、今作のアーサーみたいな心境なんじゃないかと思う。今年で言えば、京アニ放火事件とか、川崎市登戸通り魔事件とか。

全てではないかもしれないけど、多くの凶悪犯罪は、元々悪い人だから起こすのではない。社会から疎外され、否定され、憎しみを蓄積濃縮した人が、失うものが全て無くなった時に爆発させるものだと、そう感じる。そして世の中には、「ジョーカー」になる一歩手前で踏みとどまっている人が沢山いる。

そういえば荒木飛呂彦先生も言っていた。「弱さを攻撃に変えた人間こそが真に恐ろしい」と。

 

そしてもう一つ、今作の恐ろしい所は、社会への不平不満を持つ大衆がアーサーを持ち上げることでジョーカーが誕生したところ。アーサーをどこか感情移入しちゃ自分、恐ろしい事をしているアーサーを応援しちゃう自分。普段、ヒーローを応援しているくせに「実は自分もあっち(ヴィラン)側なのかもしれないと思わせちゃう。「悪」は突然現れるのではなく、そうなりうる人物に関わる全ての人が、知らず知らずと作り上げていくのだと思う。

 

 

 

 

当然ながら以上は私個人の意見感想だ。今作の面白いのは、観た人で意見がいろいろあって、それを読み比べること。私のように「周囲がアーサーをジョーカーに変えた」と言う人もいれば、「いや彼は元からおかしかった」という人もいる。観る人によっては、彼はヒーローに見えるかもしれない。そういう「悪とは何なのか?」「現実世界におけるジョーカーが生まれる可能性」とか観た人が意見感想をぶつけあう事で、恵まれた環境で生きていると気づきにくい現実の社会問題を可視化すること、いわゆる我々普通の人たちの中に存在する「悪の可能性」に気付かせること。それが今作の、ジョーカー(アーサー)の真の狙いなのかもしれない。

 

 

 

追加

大事なことを書き忘れるところだった。悪人サイドの物語の感想で「こういう悲しい生い立ちだからそうなった」と書くと必ず「だから彼の罪はしょうがない、って許されるの?」って反論が出る。

私はそんなことは言わない。私が言いたいのは「だからしょうがない」ではなく「そうならないように(悪人を作り出さないように)、人にやさしくしよう」ってこと。そんな大きなことじゃなくてもいい、普段の日常での何気ないやさしさが、時として犯罪者になる一歩手前の人の抑止力になるかもしれないってこと。コンビニでのバイト店員に対する「ありがとう」の一言だとか、運転中一時停止して歩行者や右折車への譲りとか。

作中でバスでのお母さんが「この子にかまわないで」ではなく「ありがとう」と言っていたら。アーサーが芸人仲間の小人症の人に対して「君だけは僕にやさしかった」と言って殺さなかったこととか。

「やさしさ」というのも一種の「防犯」なのかもしれない。